本当の自己愛
こんにちは。
自己愛について。
単純に答えを言うなら、エゴの事でしょう?
自分を好きな人、嫌いな人が居ます。
根底の部分で自分を愛しなさいという意味でも自己愛と解釈できます。
が、しかし、私なんぞはしっくり来ない。
ひねくれているわけではない。ただ、純粋に違うと思えてしまう。
自分を愛さないとはどういう事なのかが先ず理解できない。
幼少の頃から自分を嫌いな人はいないでしょう。
人に傷つけられるようなことをされたか、言われたかするか、挫折や失敗の経験で
自分てなんてダメな人間なんだろうと自己評価しながら、だんだん自分を理解していく。
誰が悪いっていじめにあうなら、そうやって傷つける人が悪い。
悪いのは自分じゃない。そうやって追い込んでいじめた奴らが悪い。
なのに、強いものには敵わない。「そんなこと無い」と自分で自信持って否定が出来ない。
失敗や挫折も誰もが経験するはず。一度も経験無い人なんぞいない。
なのに傷ついた自分を否定する。
自分を嫌いになる・・・
自信喪失。否定する自分。
言い方悪いけど、甘えてる。自暴自棄も同じ。
被害者だけど被害者意識に負けてる。
こんな事いうと引くだろうなぁ(^^;;;;;;;
被害者意識のナルシストと思えてしまう。
人に同情を求めて可愛がられたい、愛されたいからそんな事を言うのよ。
・・・これ以上いったらやばいかもしれない・・・
沸々と憤りさえ覚える。
--**--付け足し
自己愛は自分を愛するという意味ですよね。
自分を愛していない人なんて人はいないといいたかっただけ。
無我の愛、無償の愛を語ってからここを問題にしないとならなかったかなぁ?
自分が嫌いという人・・・自己否定しているという処に、「ずるさ」を感じているからなんです。
本当は自分を嫌っていないのに・・・って
例えば外見がブスでいじめにあった人がいるとします。
落ち込みます。
それに嘆いているだけでいいのでしょうか?
優しい言葉をかけられてその人はそれで救われていますか?
もっともっと深刻な人居ます。それこそ五体満足じゃない人もいます。
その人たちが甘い言葉を欲しがっているとは思えません。
それこそ同情なんてくだらないと分かっているでしょう。
言葉にするとこんな表現しか出来ないのですが・・・
闘わないで、自分を否定して嘆いているから
そこに憤りを感じたんです。
--**--
そして優しい人は「そんなこと無いわ。大丈夫貴方は愛されていますよ」言う。
またこれも私なんぞはムッとくる。
自己否定している人はこういう優しい人のところへ何故か嗅ぎ分けて求めていく。
優しくされたくて。
こんな偽りの優しさで、自分を救えると思うところに甘えがある。
そしてその優しい言葉をかけてくれる人は本当の優しさなんてない。
実際救われて自分を愛したとしたら・・・それはエゴ。
無償の愛が最高の愛だとしたら、そこから自己愛は出てこない。
無償は無我だからエゴがない。
実際エゴの塊の人の事を好きな人等いない。また自信喪失になる。
何度かこんな話をしているけど、本当の優しさって甘い汁じゃないと私は思う。
もし、自分を愛せないと言っている人が私に相談しにきたら、こういいます。
「十分自分を愛していますよ。現に自分の心を優先に話しているじゃないですか。
嫌いなら無関心なはずですよ。」
それでいい、それが本当。変わる必要もない。
自分を嫌いと騒ぐ人は少しだけエゴが強いだけ。そして依存が強いだけ。
だから常に自分に感心もって欲しいと他人に分かるように訴える。
そういう弱さに気付かなければいつまでもその人は救われない。
私なら厳しく、突き放していると思う。
私なら強くなれと突き放していると思う。
人に寄りかからず生きていくことを教えるのが本当の優しさだと思う。
慰めるだけなら優しさじゃなく、社交辞令でもできる。
もっとも偽りの優しさは、その社交辞令のようなもの。
その人が本当に必要な事は何かを理解していないから、自分が優しい言葉をかけていることに
酔いしれてしまう。
恐らく自分が嫌いとか言う人は私のところへは来ない。そういう人は甘えさせてくれる人を何故か
嗅ぎ分ける鼻をもっているから。
自分を愛すって何?
自分を大切にするって事?
やっぱりエゴだ・・・。
--**-- またまた付けたし
この文章あやふや過ぎますね。
自己愛は自分の事を愛すこと=エゴです。これを否定しているのではないです。
自分を好きなはずといいたかったのです。一人の時はそれでいい。
ただ、人を思う時、自己愛が捨てられるか捨てられないです。
自己愛と自分が好きと自分が嫌い(自意識)とある意味イコールに近い様に思います。
本来、自分が嫌いという人もいないだから、自分を好きとか嫌いとかを対象にして、
人が救われるわけが無いのです。
被害意識は自己愛にある意味近いとまで言っているつもりだったのですが・・・
人の為に何一つ考えてる余裕がないですからね。
無我になっていない姿です。これはエゴ。
他人に自分が嫌いと話を持っていった時点で、もしくは他人に自分の存在を過剰に
心配かけるかのようにアピールすのであれば、それはエゴでしょう。
エゴだから自己愛。ほら、自分を愛してるでしょう。
自分を嫌いな人なんていないですよ。そんな事を問題にすること事態嘘だと思えています。
--**--
--**-- 最終結論 --**--
もう、皆読まないかな^^;
自己愛を主張している人は愛を求めます。しかも、偽りの愛をです。
かわいそうな自分と自己愛を主張している人
(心配かけるかのようにアピールすのであれば、それはエゴでしょう。
エゴだから自己愛という論理式に基づく)は、
かわいそうに、と全てを理解しているように、言ってくれる偽りの愛を求める。
同情する人は相手の可哀想さが理解していると何故分かる?
理解したと思えば、立ち直ると信じる。
私には少し不思議。
かわいそうな自分と言っている人は真剣に立ち直りたいのではない。
同情を引いて感心を持ってもらえれば満足なのである。
そして同情している側がいる。その人も自分が優しいと納得している。
全てを受け止めて、慰めていると信じている。誰の判断・・・それは自分。
無我が無い、無償がない。
それを愛というから、違うということを言いたかった。
そういうのは、愛ではなく、両者とも自己愛なのである。
受け止めたり慰めたりする側が本当の愛を与えるのであれば、
かわいそうな自分と言っていること事態、自己愛であることを気付かせることである。
嫌われてもいいから、事実を受け止めるということを教えてやることである。
ここに無我がある。嫌われてもいい。自分を見つめろと教えている。
が、恐らく、自己愛の人はこの愛を理解できずに、冷たい人とレッテルを貼るだろう。
--**--
自己愛について。
単純に答えを言うなら、エゴの事でしょう?
自分を好きな人、嫌いな人が居ます。
根底の部分で自分を愛しなさいという意味でも自己愛と解釈できます。
が、しかし、私なんぞはしっくり来ない。
ひねくれているわけではない。ただ、純粋に違うと思えてしまう。
自分を愛さないとはどういう事なのかが先ず理解できない。
幼少の頃から自分を嫌いな人はいないでしょう。
人に傷つけられるようなことをされたか、言われたかするか、挫折や失敗の経験で
自分てなんてダメな人間なんだろうと自己評価しながら、だんだん自分を理解していく。
誰が悪いっていじめにあうなら、そうやって傷つける人が悪い。
悪いのは自分じゃない。そうやって追い込んでいじめた奴らが悪い。
なのに、強いものには敵わない。「そんなこと無い」と自分で自信持って否定が出来ない。
失敗や挫折も誰もが経験するはず。一度も経験無い人なんぞいない。
なのに傷ついた自分を否定する。
自分を嫌いになる・・・
自信喪失。否定する自分。
言い方悪いけど、甘えてる。自暴自棄も同じ。
被害者だけど被害者意識に負けてる。
こんな事いうと引くだろうなぁ(^^;;;;;;;
被害者意識のナルシストと思えてしまう。
人に同情を求めて可愛がられたい、愛されたいからそんな事を言うのよ。
・・・これ以上いったらやばいかもしれない・・・
沸々と憤りさえ覚える。
--**--付け足し
自己愛は自分を愛するという意味ですよね。
自分を愛していない人なんて人はいないといいたかっただけ。
無我の愛、無償の愛を語ってからここを問題にしないとならなかったかなぁ?
自分が嫌いという人・・・自己否定しているという処に、「ずるさ」を感じているからなんです。
本当は自分を嫌っていないのに・・・って
例えば外見がブスでいじめにあった人がいるとします。
落ち込みます。
それに嘆いているだけでいいのでしょうか?
優しい言葉をかけられてその人はそれで救われていますか?
もっともっと深刻な人居ます。それこそ五体満足じゃない人もいます。
その人たちが甘い言葉を欲しがっているとは思えません。
それこそ同情なんてくだらないと分かっているでしょう。
言葉にするとこんな表現しか出来ないのですが・・・
闘わないで、自分を否定して嘆いているから
そこに憤りを感じたんです。
--**--
そして優しい人は「そんなこと無いわ。大丈夫貴方は愛されていますよ」言う。
またこれも私なんぞはムッとくる。
自己否定している人はこういう優しい人のところへ何故か嗅ぎ分けて求めていく。
優しくされたくて。
こんな偽りの優しさで、自分を救えると思うところに甘えがある。
そしてその優しい言葉をかけてくれる人は本当の優しさなんてない。
実際救われて自分を愛したとしたら・・・それはエゴ。
無償の愛が最高の愛だとしたら、そこから自己愛は出てこない。
無償は無我だからエゴがない。
実際エゴの塊の人の事を好きな人等いない。また自信喪失になる。
何度かこんな話をしているけど、本当の優しさって甘い汁じゃないと私は思う。
もし、自分を愛せないと言っている人が私に相談しにきたら、こういいます。
「十分自分を愛していますよ。現に自分の心を優先に話しているじゃないですか。
嫌いなら無関心なはずですよ。」
それでいい、それが本当。変わる必要もない。
自分を嫌いと騒ぐ人は少しだけエゴが強いだけ。そして依存が強いだけ。
だから常に自分に感心もって欲しいと他人に分かるように訴える。
そういう弱さに気付かなければいつまでもその人は救われない。
私なら厳しく、突き放していると思う。
私なら強くなれと突き放していると思う。
人に寄りかからず生きていくことを教えるのが本当の優しさだと思う。
慰めるだけなら優しさじゃなく、社交辞令でもできる。
もっとも偽りの優しさは、その社交辞令のようなもの。
その人が本当に必要な事は何かを理解していないから、自分が優しい言葉をかけていることに
酔いしれてしまう。
恐らく自分が嫌いとか言う人は私のところへは来ない。そういう人は甘えさせてくれる人を何故か
嗅ぎ分ける鼻をもっているから。
自分を愛すって何?
自分を大切にするって事?
やっぱりエゴだ・・・。
--**-- またまた付けたし
この文章あやふや過ぎますね。
自己愛は自分の事を愛すこと=エゴです。これを否定しているのではないです。
自分を好きなはずといいたかったのです。一人の時はそれでいい。
ただ、人を思う時、自己愛が捨てられるか捨てられないです。
自己愛と自分が好きと自分が嫌い(自意識)とある意味イコールに近い様に思います。
本来、自分が嫌いという人もいないだから、自分を好きとか嫌いとかを対象にして、
人が救われるわけが無いのです。
被害意識は自己愛にある意味近いとまで言っているつもりだったのですが・・・
人の為に何一つ考えてる余裕がないですからね。
無我になっていない姿です。これはエゴ。
他人に自分が嫌いと話を持っていった時点で、もしくは他人に自分の存在を過剰に
心配かけるかのようにアピールすのであれば、それはエゴでしょう。
エゴだから自己愛。ほら、自分を愛してるでしょう。
自分を嫌いな人なんていないですよ。そんな事を問題にすること事態嘘だと思えています。
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--**-- 最終結論 --**--
もう、皆読まないかな^^;
自己愛を主張している人は愛を求めます。しかも、偽りの愛をです。
かわいそうな自分と自己愛を主張している人
(心配かけるかのようにアピールすのであれば、それはエゴでしょう。
エゴだから自己愛という論理式に基づく)は、
かわいそうに、と全てを理解しているように、言ってくれる偽りの愛を求める。
同情する人は相手の可哀想さが理解していると何故分かる?
理解したと思えば、立ち直ると信じる。
私には少し不思議。
かわいそうな自分と言っている人は真剣に立ち直りたいのではない。
同情を引いて感心を持ってもらえれば満足なのである。
そして同情している側がいる。その人も自分が優しいと納得している。
全てを受け止めて、慰めていると信じている。誰の判断・・・それは自分。
無我が無い、無償がない。
それを愛というから、違うということを言いたかった。
そういうのは、愛ではなく、両者とも自己愛なのである。
受け止めたり慰めたりする側が本当の愛を与えるのであれば、
かわいそうな自分と言っていること事態、自己愛であることを気付かせることである。
嫌われてもいいから、事実を受け止めるということを教えてやることである。
ここに無我がある。嫌われてもいい。自分を見つめろと教えている。
が、恐らく、自己愛の人はこの愛を理解できずに、冷たい人とレッテルを貼るだろう。
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