メーテルのリーディング

目を閉じて視たままをお話しています♪

愛すること、愛されること

こんにちは。

先日の愛するという行為と錯覚した自己愛について話してきました。

今回は錯覚を指摘するのではなく、愛の核心についてです。


それは沢山愛を受けて育つ年頃がなければいけないのかもしれません。
ただ泣くばかりの赤ん坊は親に全てを託しています。
そして親はエゴを捨てて、子供の為に望みをかなえ様とします。

例え寒くても、例え眠くても、この子の為にと起き上がり、おっぱいを与え、
おしめを取り替えて、この子がぐっすり眠れますようにと、自分の欲望を消して
無我になって働きかけます。これが愛です。

夜鳴き程辛いものはありません。
それを辛いと思う暇もなく、傍に駆け寄りその子を抱き上げているのが親の愛です。
辛いと思っても、その子を助けるから愛なのです。
赤ん坊自身は存在だけの愛であって、愛する行為はしてくれません。

私達はそうやって育ってきました。愛されて愛を知ります。
そして、自分を守ってくれると親を信頼していきます。
そして自分が大切にされていることを意識しなくても知ります。

愛は不安になることはありません。愛は、優しさに触れ、暖かい心を分け与えてもらえます。
そして安心と満足が残ります。

愛されて大切にされていると信じる事が出来るから自分を大切にします。
これを自己愛とはいいません。
自分自身が愛すべき価値ある人間だと思えるようになれます。
人生を大切に生きようとします。
愛を要求するずるいエゴがありません。

愛されようと努力しなくても愛されていることが真実の「愛されていること」なのです。

愛を知らない人の愛し方は、演じ続けなければ愛されないと感じています。
愛されようと必死になって、人の顔色を見て好かれる行為を見つけます。
愛されようと必死になって、人気者を演じます。
愛されようと必死になって、身体を提供していまう女性になってしまいます。

自分が愛されるに値しないと思っている人は自分を大切にしません。
愛されていない不安が人を攻撃したり、人を見下し、高飛車になって独りよがりをしています。
あるいは人や自分を卑下し動物すらもぼろきれのように扱ったりするのです。

本当の愛を知るには親の愛を十分受け、そして親になって初めて愛することの
無我を知るのかもしれません。